「房総の自然」さんのホームページを拝見し、『富津公園』には『銃座』などの遺構があり、公園とは別の
魅力があることに気づき、私達なりに探訪しました。また、公民館で『富津市史』をみて、過去の意外な歴史
があることがわかり、ますます興味をそそられました。



『富津市史 通史』より
 東京湾の喉元を握っている房総半島と三浦半島は、幕末、外国船の来日が頻繁になるにつれ海防上の
見地から注目を集め、特に黒船の渡来以後その防備を急いだ...(中略)...明治5年(1872)フラン
スから招いたマクリール中佐が図上で砲台の位置を策定、海岸防備法案を作ったが病気で辞任し、後任
ミュニエーらが明治7年以後、原田一道大佐らと全国の海防の要地を調査し、観音崎と富津に砲台を築く
ことの絶対必要であることを進言した。これによって明治9年(1876)観音崎砲台用地の一部を買収した
が、これが維新後における国防工事の第一歩であった。 ・・・(中略)・・・ 明治12年(1879)参謀本部
に「海岸防御取調委員」が置かれ、その常任委員となった西田明則工兵大尉は、「東京湾要塞建設論」を
陸軍卿山県有朋に提出して、砲台と海堡の必要を述べた。この意見によって、明治13年に観音崎砲台が、
続いて猿島、元洲砲台及び海堡の建設が年を追って進められた。

 富津元洲堡塁砲台 俗に元洲砲台という。富津市富津字元洲、富津岬の基部にある。明治14年(1881)
8月に起工、同17年6月に竣工した。砲台建設には周囲の砂を盛り上げ、砂の崩壊を防ぐため二間塚
(元飯野村)あたりの真土で覆ったという。この砲台は平面積約18000平方メートル扁平五角形の堡塁で、
25年(1892)28センチ榴弾砲6門と12センチカノン砲の据付けを完了し、日清戦争当時、戦闘配備につ
いた。日露戦争中、28センチ榴弾砲2門は撤去され、攻城砲として旅順に送られた。堡塁の周囲は幅20〜
30メートルの外壕として、海水を引き入れ砲台の警備に役立たせている。その面積は約26000平方メー
トル。
 積土の上の砲座は6門を東西に配置し、その後方地下掩蔽部は各種の用に供した。砲列の両端にコンク
リート造りの観測所を設けた。
 大正4年(1915)砲台は旧式となって除籍された。
 現在も堡塁はほぼ原形をとどめ、富津公園の一部になっている。